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​『感情という、見知らぬ建築​』

半麦ハット

《半麦ハット》(板坂留五+西澤徹夫設計、2019)を訪れた。淡路島の海沿い、板坂の両親のための週末住宅とお母さんが営む子供服の週末店舗という、小さな建築である。

 

何か文章を書いてみたいな、と思わせる建築がある。僕にとってそれは「その建築物に感動した関わらず、どこにその感動したのかわからないもの」であることが多い。例えばルイス・カーンのドラマに、アルヴァロ・シザのシーンに、カルロ・スカルパのシークエンスに、僕らは感動するのだろう。もちろんそれらの建築物を言語化してみたところで、受けた感動のすべてが言葉になるわけではない。でも、おそらくこの部分が、感動を呼び起こしたのではないか、という探りを入れることはできる。できるだけつぶさに、建築物を部分に切り分けて、出来ることなら別の解釈を与えることが、建築と文章の幸福な関係である、そのように思う。と同時に、建築に文章が貢献できることは、せいぜいそのくらいだろう。

 

《半麦ハット》も、文章を書いてみたいという衝動に駆られる建築のひとつである。これは間違いない。でも、《半麦ハット》は僕を感動させることはなかった。これも、間違いない。そう、《半麦ハット》は感動的な建築ではない。

でも、感動の代わりに、《半麦ハット》は僕に「感情」としか言い表しようのない気持ちを抱かせた。この気持ちは、嬉しさでもなく、悲しさや腹立たしさでもない。かといって感覚や愛情といった、「感情」の類義語をこの気持ちに当てはめてみたところで、残るのは違和感ばかりだ。一言で言い表すことのできない、ただただ抽象的な感情。建築物は物の集合であり、物に感情を抱くなんて、変な話ではあるけれど、でもその変な話が《半麦ハット》にはふさわしい気がする。この感情に、どのような名をつけようか、僕は今、迷っている。

 

サガン

《半麦ハット》を訪れてしばらく経った後、ふとフランソワーズ・サガンの処女作『悲しみよこんにちは』を思い出した。この小説の読後感が、《半麦ハット》の感想に漸近しているとそのように思う。

 

この小説の、感情について書いた、短いながらも的確な所感を書いた書き出しの一文は、他のどの小説のよりも瑞々しい。

 

“ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は迷う。”

フランソワーズ・サガン『悲しみよこんにちは』朝吹登美子訳 新潮社、1955

 

当時18歳のサガンは、17歳の主人公セシルを通して、自分の抱いた感情に、言葉をあてはめてみようとした。でも、この世界にあらかじめ用意された「悲しみ」という言葉が、果たして自分の感情を的確に表現しているのかどうか迷う、という所感を述べる。

もしかしたら激しい感情は、たった一言、言葉で表すことができるかもしれない。極度に悲しければ、または極度に嬉しければ、どんな長文よりも、たった一言、その気持ちを述べる方が相手に自分の感情を伝えることができるだろう。でも、感情はいつも激しいとは限らない。言わんともし難い感情は、いつも僕らの傍に寄り添い、言葉の網目をすり抜けていく。サガンの抱いた見知らぬ感情とは、おそらくそのような種類の感情なのだろう。

 

この小説は、結びの一文も素晴らしい。

 

“すると何かが私の内に湧きあがり、私はそれを、眼をつぶったままその名前で迎える。悲しみよ、こんにちは。”

 

結びの一文は題名と同じく「悲しみよ、こんにちは」という一文で締め括られる。いや、正確に表現しよう。一見、一致している。結びの一文には、題名にはない読点(、)が存在する。

題名と結びの一文が一致する、ということは、物語が完結するということを意味する。読点がなければ、この物語は題名の通り、悲しみをまだ知らない少女が、やがて見知らぬ感情と悲しみを一致させることに成功したという成長譚に過ぎなくなる。

しかし、「悲しみよ」と「こんにちは」の間にある読点は、サガンのためらいや戸惑い、迷いを黙説の中に表している。

物語は完結せず、書き出しへと逆戻りする。これは、この小説が円環構造にあることを意味しているのではない。この小説は、感情に名前をつけることがいかに難しいか、そのことを意味している。それも、費やしたページの数だけ、文字の数だけ、困難さは困難さとして手触りを持ちはじめる。その困難さに価値があるのだ。

 

結局のところ、この小説は、ものうさで、甘く、重々しく、りっぱな物語であり、最後までサガンは自分の感情と、悲しみという一般名詞の間の隔たりの中で迷い続けた。サガンはものうさと甘さがつきまとって離れない見知らぬ感情を、悲しみという重々しい、りっぱな名前をつけることができなかったのだ。それも、読点の分だけ。『悲しみよこんにちは』は、決して成長譚などではない。人はいくら成長しても、結局のところ割り切れぬものがある、ということを、読点という記号で示す、そのような黙説法の小説である。

 

感情に名前をつけるということに迷いを覚えるのは、何もサガンだけではない。僕らはいつだって、自分の感情を目の前にして、沈黙の中に引き摺り込まれそうになる。それを、表にあらわすことが出来ずにいる。

感情は、一言で割り切れないからこそ感情であり、一言で割り切れないからこそ、僕らはそれに価値を置く。感情は、微動だにしない停止点ではない。ある言葉とある言葉の間で揺れ動く運動、そのものである。

 

表面

感情が言葉の揺れ動きの中にあるのだとすれば、建築物は、微動だにしない表面の停止点だ。「建築物をつくる」ということは、無数の可能性の中から、何を表にあらわし、何を裏に隠すかの選択を行うことである(もちろんそれだけではないが、でも最終的に僕らは何を表にあらわすか、という決定をしなければならない)。

表面は、建築物にとって最も重要である。いや、正確に書くのならば、表面は、建築家とそれを読み取る物にとって、最も重要である、と言い直そう。表面に意味を見つけ、表面の意味の連なりに整合性を見出し、意味と整合性を作者に結びつけながら、僕らは建築物にある一定の評価を下す。何層にも重なった物の戯れを、物理法則と施工可能性に従い整理していき、そして残された表面にのみ、建築家の自由は与えられている。与えられた自由を、表面の決定によって微動だにしない停止点へと固定していくことこそが、建築物をつくることに他ならない。

表面は自由だけれども、物の持つ物理法則――物性から逃れることはできない。物性に従い、適切に表面を選ぶことが、建築物をつくるときには必要だ。

 

なぜこんな当たり前の話をしなければならないのか。《半麦ハット》の表面が、当たり前ではないからだ。当たり前でないものの前で僕らは、改めて当たり前のことを改めて考えさせられる。

 

《半麦ハット》は三角屋根をもつ温室用の鉄骨フレームがあり、これに屋根と屋根、外壁と内壁、それから断熱材が取り付く。それから、鉄骨フレームの中に、間仕切り壁をつくるための木造のフレームが用意されている。

外壁はフレキシブルボード下見板貼、内壁は石膏ボードにAEP塗装。屋根はガルバリウム、天井はケイ酸カルシウム板。半麦ハットの表面も、物性から逃れているわけではない。適切な場所に、適切な物性の素材が表面として与えられている。

言葉にしてみてはっきりとわかったが、半麦ハットの表面の素材としての側面に、特筆するところは見当たらない。

 

床に

最初の30分、僕は眼の高さに写真機を構え、写真を撮ってみた。でも、《半麦ハット》における何もかもが、写真には写らない。眼の高さに写真機を構えること=僕の任意の意思では、《半麦ハット》を切り取ることはできない。写真機を持ち上げて10枚ほど写真を撮ってみたところで、僕はその事実に気づく。

だから、意思ではなく重力に、写真を任せてみようと思った。写真機を床において、数枚、写真を撮る。そこでようやく、《半麦ハット》は僕の気持ちを動かす。ハッとするような、揺れ動く感情が生まれた。

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構造材として与えられていた製材は、あるときには構造材として石膏ボードの裏に隠れるが、巾木のあたりにきて、表面として顔をあらわす。間仕切り壁の端部で、塗装の中から木材が現れる。

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天井材はフランジの上に置かれている。フランジは表面としてあらわれ、鈍く光を溜める。フランジと呼応するように、フレキシブルボードを抑えるアルミの棒材。クリア塗装をかけたフレキシブルボードは艶を帯びているが、アルミは艶というよりは、反射という言葉がよく似合う。

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この表面にどのような意図があるのか、あるいはどのような意味を読み取るべきなのか。

 

読もうとする

建築を読むということは、目に見える表面に何らかの意図や意味を重ねて、建築物の表面に、表面以上の何かを――その何か多くは意図や意味、概念つまりはコンセプトと呼ばれる――読み取ろうとする行為だ。それを僕らは解釈と呼んでいる。いくつかの表面の解釈を、ひとつの物語に紡いだものが批評であろう。

それはちょうど、ゲルハルト・リヒターの写真/絵画作品《フォトペイティング》のように、表面に作為を加えながら、ある厚みをもたすことに似ている。表面に与えた解釈が次の解釈を呼び、そうして表面は徐々に厚みを増していく。

 

大抵の建築物は、それがどれほど難読なものであろうと、1時間も経てば、意図が読み取れるものだ。個々人の読み取り能力の寡多は関係ない。そもそも建築物とは基本的にそのように作られている。建築家には意図があって、意図に従って骨格と表面がつくられ、表面と骨格に厚みがもたらされる。僕らはその厚みの上や中に意図を読み取り、意味を見出して、その表面を上塗りする。建築物は、そもそもそのように作られている。

 

読めない

1時間が経った。さて、《半麦ハット》の表面にどのような厚みをつけていこうかと息巻いたものの、つけるべき厚みが見当たらない。これは僕の能力の無さかもしれないが、《半麦ハット》の表面から、僕はなにも読み取ることができなかった。

《半麦ハット》の表面はもう十分に厚いのだ。どういうことか。

 

1時間後、重力に任せた写真に収められた、《半麦ハット》の表面を確認する。そこに収められた図像に、まとまりはない。ディテールの総体がある一定の意図を結ぶかと問われれば、そうでもない。かといってそのどれもが思わせぶりで、ひとつひとつ意図があるかのようにも見える。しかし、その読み取りははぐらかされて、どうも1つの像を結ぶことができない。仕方なしに目をうんと遠ざけて、全体を見渡すと、やはり何かしら、独特の空気がここにある。かといってそれが空間の感動かと問われれば、そうでもない。言葉になりそうで、でもその欲望が拐かされるような、独特の空気。ちょうどサガンが見知らぬ感情にためらったように、僕は表面と意図、それから意味、そして言葉の間で宙吊りとなった。この宙吊りとなった空気や気持ちに適切な言葉をつけるとすれば、それはサガンが悲しみに似つかわしくもそう呼ばなかった自らの見知らぬ空気や気持ちを、「感情」と呼んだのと同様に、感情という名前をつけるほかない。

 

所有

意図の読み取れないディテールや、その総体としての建築物はやがて僕の前で、もはや誰のものでもなくなった。設計とは物に意図をつけることであり、批評とは物に意味を見つけ、別の解釈をつけることだ。でも、ここには意図も意味もない。何度も書くが、設計者は物に意図をつけて、それを表面で表し、物を自分の所有物とする。批評者は、表面に見えている物に意味を見つけ、それを自分の所有物とする。所有を巡る攻防戦が、建築物を解釈するということだ。

ここには意図も意味もない、ということは、ここに所有という概念がないことを意味する。サガンは悲しみを所有しなかった。『悲しみよこんにちは』の中で彼女が唯一所有したものは、見知らぬ感情であった。僕は《半麦ハット》の中で手にしたものは意味でもなく解釈でもない。唯一、感情が僕の手の中に残った。

これが、《半麦ハット》が作品であることの証左でもある。何ら読み取るべきものがない建築物に、手に残るものは何もない。しかしながら《半麦ハット》には、感情が残った。

 

また、《半麦ハット》を形作る物は、ただ単純に物の世界に留まり続ける。物の世界に留まり続ける建築物、とは、とても素晴らしい。それは誰のものでもない。物質でも物体でもない、物としか呼びようのない、物の集合。物が所有される以前に見せていた、瑞々しい姿。その姿の集合が、《半麦ハット》である。《半麦ハット》の中にいる僕は、誰のものでもない世界に浸ることができた。

 

愛着

愛着は所有と感情を加えて出来上がる。だから、僕は《半麦ハット》に愛着は持てなかった。ドライでフラットで、ただ感情のみが残る世界。もちろん設計者や施主は、それを資本主義的に所有している。それは間違いない。でも、資本主義的に所有する以上の世界がそこにはあるのではないだろうか。僕と彼らは違うから、そこに愛着があるのかどうかはわからない。でも、それが本当に愛着という感情なのか、もしかしたらそれは、見知らぬ感情ではないのか、物が物以上の価値を持つのか否か、サガンが検証したように、確かめて欲しいと思う。それがどんな感情なのか、そこにどのような言葉をつければ、その感情を表現できるのか、見知らぬ感情しか所有していない今の僕には、一番それが気になっている。

 

三浦哲哉が濱口竜介の映画作品『ハッピーアワー』を論じた著作、『ハッピーアワー論』。これもまた、書き出しである。

 

“映画を見終えたあとで、外の世界がまたあたらしく見えるということがある。”

三浦哲哉『ハッピーアワー論』羽鳥書店、2018

 

三浦はその対象を『ハッピーアワー』としたが、僕はそれを《半麦ハット》に置き換えたい。《半麦ハット》を後にした僕らには、世界がまたあたらしく見えている。《半麦ハット》以前の世界。それは何かが誰かに所有されている世界であった。《半麦ハット》を見終えたあとで、外の世界はこのように変わるだろう――所有も愛着もない、誰のものでもない世界。所有なき世界。資本主義の根本概念である所有を免れた、物の総体としての世界。また世界があたらしく見える。この見知らぬ感情に、名をつけることすら、僕にはできないが。それでも、残る感情は確かにある。

 

《半麦ハット》。このような感情的な建築を、僕は他に知らない。

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