『改めて考える』
(古澤邸に寄せる活字たち)
〈考える〉ということについて
〈考える〉、ということについて改めて考えてみる。〈考える〉とは一般的に、知らないことを、知っていることにするため、少なくとも知っていることにするためにあらゆる仮説を立てることを指す言葉だろう。考える対象はいくつかあって、もちろんその一つは「知らないことについて考える」ことであるが、「そもそも知っていることについて改めて考えてみる」ということも〈考える〉ことの対象であることを、僕たちは忘れてはならない。前者が「未知→既知」という流れを持つとすれば、後者は「既知→未知」という逆のベクトルを持っている。そして、『(仮称)古澤邸』は後者だ。
建築物について改めて考えてみる
コンクリートによるラーメン構造を改めて考えてみると……、いや、もっと広げて建築物について考えてみよう。建築物は、床によって僕たちの活動領域を広げ、壁によって空間を立ち上げる。天井や屋根はその空間の気積を決め、柱は床や屋根を支え、地面にその荷重を伝える役割をもつ。梁は床と天井(以下、まとめてスラブという)にかかる荷重を柱に伝え、同時に柱が倒れないようにつっかえ棒としての役割をもつ。ラーメン構造は、この建築部材たちの理想的な役割分担を、最も理想的に現した、建築物の模式図のような出で立ちでこの世界に立ち現れる。
コンクリートについて改めて考えてみる
しかし一般的なラーメン構造の建築物は、この理想的な模式図を隠蔽する形で立ち現れる。スラブ・柱・梁の多くは仕上げによって隠蔽される。これはひとえにコンクリートの熱特性によるもので、熱しやすく冷めやすいコンクリートは僕たちの生活環境、特に熱環境に悪影響を及ぼす。だから仕上げと躯体の間に断熱材を入れる必要があり、断熱材は美観の観点から隠蔽されなければならない。恒温動物の僕たちにとって、変温物質のコンクリートは他者としてふるまい、コンクリートの他者性は隠蔽されることにより、より他者性を強める。少なくとも日常生活において、僕たちが隠蔽されたコンクリートの存在を意識することはない。改めて断言する必要があるが、コンクリートは僕たちを支え、また包み込みこそすれ、他者である。
これから訪れる未知の領域に向かって
ここまでの文章は、ひどく一般的で、あまりに常識的だ。自分で書いていて辟易するほどに。そもそも文章は、少なくとも批評文においては一般的で常識的なことを避けなければならない。しかし、『(仮称)古澤邸』は既知→未知というベクトルをもつわけだから、何が既知で何が未知かをしっかりと確認する必要がある。辟易を承知で、僕たちが知っている建築物やラーメン構造の知識は、以上のようなものであると一度確認してみた。これから訪れる未知の領域に向かって。
『(仮称)古澤邸』と形式
『(仮称)古澤邸』の梁はスラブを支えない。これが『(仮称)古澤邸』で起こっていることだ。梁の役割分担が、ひとつ抜け落ちている。梁の仕事放棄。これが『(仮称)古澤邸』である。スラブと梁が分断した躯体は、十字形のワンフレームによるワンスパンのラーメン構造として立ち現れてくる。極めて強い形式をともなった、十字形のラーメン構造の柱に、スラブが片持で取り付く。柱と梁を400×400で統一したことにより、十字形の形式性はより一層強まる。形式。未知の領域に到達する前に、というよりも到達するために、形式についても改めて考える必要がある。
形式について改めて考えてみる
異論はあろうが、形式も他者だ。住宅を巣であると言い切ってしまえば、それを円や四角といった形式で囲いとる必要はない。少なくとも僕たちの生活においては、そうである。雨風をしのぎ、インフラが通り、内部空間が快適であるならば、住宅は洞窟であっても森であっても雲であっても構わない。むしろ、そういった自然環境の中に住むことのほうが、何となく自然な感じがする。でも、僕たちが自然環境の中に住むことができないのは、雨風を防ぎ、インフラを通し、快適な内部空間をつくるためには情報を効率的に整理する必要があるからで、そのためには形式が必要だ。あらゆるものを整理し、調停するために形式が必要となる。裏を返せば、僕たちの生活に形式は関係ない。形式は僕たちの生活にとってあくまで他者だ。
ひとまず、建築物は形式を必要とする。建築物は世界の一部に対して、形式を利用して空間を囲いとった内世界である。ひたすら人間の快適な生活に奉仕するための、内世界である。形式は世界と内世界の境界線であり、境界線の輪郭を形式という。形式という言葉に違和感が残るなら、図式といっても構わないし、力学的な意味ではない構造といっても構わないが、ここでは幾何学的に切り取られた、内世界をつくりだすものをひとまず形式と呼ぶことにしたい。
『(仮称)古澤邸』の形式の位置
『(仮称)古澤邸』の形式は、世界と内世界の境界線に存在しない。柱と梁による極めて強い形式は、『(仮称)古澤邸』の中心に存在し、さらにその先に片持ちスラブに支えられた生活の場がある。輪郭は生活によって型どられ、その先に外部としての世界が位置する。『(仮称)古澤邸』は内部に強い図式を孕むものの、外部世界と接続するのは図式に片方を持たれ、もう片方が外部世界に向かって解放されたスラブだ。内世界と世界の「調整しろ」として生活が存在する。少なくとも僕は、このような構造を持った建築物を見たことがない。形式は通常、快適な生活の実現を目的としてその純粋性が破壊されていく。通常の建築家の仕事は、自らが定めた形式と、自らが囲いとった内世界を純化していくために、できるだけ形式の純度を保つことにある。例えばベントキャプや雨樋は、快適な生活のために存在し、同時に形式の純度を弱める。
『(仮称)古澤邸』はというと、形式は内部に存在し、形式と生活が分離しているため、その純度が崩れることはない。形式ー生活ー外部の関係となっているため、ベントキャプもファサードを構成していても何ら違和感がない。
『(仮称)古澤邸』にとっての他者
その上で、というよりもここらかが『(仮称)古澤邸』の最も素晴らしいところだが、『(仮称)古澤邸』は梁とスラブを分離したことにより、《「コンクリート」と「形式」という生活における他者を、道具にする》。
『(仮称)古澤邸』はコンクリートの壁をもたない。壁は断熱材を挟み込んだフレキシブルボードである。つまり、コンクリートを断熱する必要がなくなり、ということは、躯体を隠蔽する必要性がなくなる。コンクリートが生活に参加することを可能にしている。スラブと分離され、いわば仕事放棄をした梁は、だらけたかのようにむきだしのまま目線の位置まで下がってくる。と同時に、外からの視線制御として機能し、かつその上端に物を置くことを可能にする。『(仮称)古澤邸』は、床の他に梁という生活の場を生み出した。スラブを支えるという梁の道具性を一度脱臼し、改めて別の道具として捉えた梁の、なんと親密なことか。400の小さな舞台の上に、目線の位置で並んだ生活用品の愛らしい存在感。唯一他者となりそうな打放の天井も、1900という天井高の設定により、手を伸ばせば触れることができるという点において、その他の建築よりも一歩親密に近づいている。しかし、『(仮称)古澤邸』の天井の操作はそれだけではない。上裏(天井と梁の上裏)は塗装型枠(いわゆるパネコート)、その他の部材は普通型枠とすることで、天井に反射という属性を加える。反射する天井は、周囲の風景を写しこむ道具として振る舞う。『(仮称)古澤邸』においては天井すら、生活に参加する。天井について、改めて考えてみないと起こりえない事態が、『(仮称)古澤邸』では起こっている。
『(仮称)古澤邸』について改めて考えてみる
隠蔽から逃れ、むき出しとなったコンクリートの肌理の、美しい様。それが、十字形の形式の上で、形式はその純度を保ったまま、同時に一気に起こっているというのが、『(仮称)古澤邸』の一番の驚きである。形式とコンクリートという生活にとっての他者が、他者として存在しつつ、生活と調停を結び、むしろ生活を彩るその様は、窓先の風景の雑多さをもそのまま受け入れる。エレメント主義と断定するにはあまりに豊穣な世界−−形式と生活とコンクリートが作り出す風景が、『(仮称)古澤邸』とその視力の届きうる範囲に存在している。梁はスラブの荷重を受けるために存在するという、既に知っていることを知らないこととして改めて考えてみた結果起きた、梁とスラブの分離。一般的な建築物とは異なる全く正反対のアプローチをとるこの操作が、ここまで豊かな世界を連れてくる。
哲学について改めて考えてみる
思えば、哲学とは既に知っていると思い込んでいることを、改めて考えることであった。僕たちは、「僕たちが存在していること」を「知っている」。にも関わらず、「ではなぜ存在するのか」、と改めて考えることが、哲学を考えることの原動力であるはずだ。既知→未知というアプローチをとった『(仮称)古澤邸』は、その意味で哲学的な建築であるということができる。それだけでない。その他多くの建築物が、〇〇を乗り越えるという宣言の元、〇〇を仮想敵におき、未知を既知にする代弁者として建てられているのであるとすれば、『(仮称)古澤邸』は何も乗り越えることなく、全く未知の建築物を作り出した。『(仮称)古澤邸』について考えることは、僕たちが知っていると思っていた〇〇について改めて考えることと同義だ。その意味で、あえて仮想敵を設定するのであれば、『(仮称)古澤邸』の〇〇は「建築物一般」である。このことが本当に僕を驚かせる。建築物という知っているようで実は知っていることが少ないその存在について、改めて考えること。既知を既知として済ますのではなく、未知なるものとして改めて考えてみること。その行為の豊かさを、みずみずしい空間でもって体現してみせた、この建築物の計り知れない懐の深さについて、改めて考え続けていたい。それが建築物一般について改めて考えることに、必ずつながるのだから。