『森羅万象・レトリック・台無し』
森羅万象
ふと考えてみると、森羅万象という言葉ほど不思議な言葉はない。人間は何か知らないものをみると、とかく名前を知りたがるものだ。それがまだ、名もなきものならば、名前をつけてみたくなる。とかく人間は、自分が知らないものに対して恐怖を抱く。名前をつけるという行為は、恐怖から逃れるために要請させる。それだけではない。名前をつけることで、対象を道具化することができる。正確に言うならば、少なくとも道具として認識することができる。
さて、森羅万象である。森羅万象という言葉には、人間の知りたいという欲望が、裏を返せば知らないという状態に対する嫌悪の情が現れている。この世のすべての現象、あるいは宇宙に存在する一切のもの。森羅万象という言葉は、この世のものごと、ひとつひとつを対象にしながら、かつ、すべてを意味している。いうなれば、すべての具体物でありながら、ひとつの抽象概念である。森羅万象のシフィニエは、具体物でありながら抽象概念なのだ。あらゆる物を、現象を道具化したいという人間の欲望が、一つの言葉に詰まっている。やはり、森羅万象という言葉は不思議だ。
レトリック
森羅万象のような不思議なことをいくつ知っているのだろうか、と思い立ち、数え上げてみた。思うに、総称というのは、具体物でありながら抽象体でもある。例えば、建築。例えば、レトリック。
レトリックは、数百の技法の総称でありながら、美文を書くための術であるという。建築は、数多ある建築物をさすこともあれば、建築という概念をさすこともある。もしかすると、森羅万象という言葉の不思議さを不思議がることができる人にのみ、この本は役に立つのかもしれない。根本的に、この本は、森羅万象という言葉ほど役に立たないものである。この本を読んだからといって、設計がうまくなるわけではないし、建築の見方が上手になるわけでもない。この本が取り扱うのは建築の、過剰な側面ばかりだ。ベーシックからはほど遠い。だから、建築の普遍的で根本的なことについて知りたければ他をあたって欲しい。社会をよくするわけでもないし、問題を解決する手がかりにすらならない無用の長物だ。
森羅万象という言葉は、実のところ何も名指してなどいないし、何の意味もないのかも知れない。それでも、名付けたいという欲望が、名付けたいという欲望の極地が、森羅万象という言葉を生み出した。森羅万象という言葉から受け取るべき教訓は、1.欲望という過剰が、とても不思議なものを生み出す,ということ、と、2.過剰から出てきたものは大抵そのものが属している概念の本質をつく、ということだ。
レトリックとは何か。レトリックとは、良い文章を書きたい、誰かを説得したい、という欲望である。あるいは、文章における装飾であり、詭弁であるかも知れない。装飾も詭弁も過剰物であり、本質をついてはいない。日本におけるレトリック研究の第一人者、佐藤信夫はレトリックについて以下のように書いている。
「古来のすぐれた表現がしばしば常識から逸脱した姿を見せたのは、多くの場合、常識的なことばづかいでは的確に語りえぬことがらを何とか語ってみせようとする苦心の結果であっただろう……と、いま私たちは考えることができる。言語認識論というべき立場から考え直してみれば、常識的なことばづかいによっては容易に造形されえない発見的な認識は、やむをえず常識からやや逸脱した表現を必要とする、とも考えられるのだ。(中略)そればかりではない。言語表現がときどき見せる風変わりな姿態は、ある意味では言語表現一般の底にひそむ本質的な仕組みを考察するたよりになるかもしれないのだ。ものごとのいわゆる異常な状態は、常識的な状態の仕組みを分析するためのかっこうの手がかりになるだろう。症状とは、かくされた仕組みを観察し解析するための手がかりでもある。無論、ことばのあや(レトリック)を症状と呼ぶのはまちがいであるが、そこにはある種の類似性がみとめられるはずだ。」※( )内補足
佐藤信夫『レトリック認識』
なぜレトリックというものが生まれたのか。目立ちたい、他とは違った表現がしたい、という欲望は、確かにレトリックを要請しただろう。だが、レトリックが発生した最も大きな要因は、世界の多様さに比べて、言葉の数があまりにも足りていないという事実である。自分の表現したい世界に対して、用意された言葉が足りないとき。レトリックはそういう時に要請される。言葉は貧弱で、世界は豊饒だ。ラカンは言う。言語は現実を語ることは出来ない。しかし、言語でしか現実を語ることはできない。
これは建築においても当てはまる。古代の建築物を見るがいい。柱・梁・屋根・床・天井・壁・窓・扉・階段。現在ですら、ここに加わるのはせいぜい10に満たない要素である。建築物の構成要素、言語でいうところの語彙はたったこれだけしか存在しない。人間が表現したいと願う建築物の姿に対して、語彙が足りていない。
レトリックは語彙の不足に対して、既存の言葉を常識的な方法から外して使用することであった。在り合せの物でなんとか表現することこそレトリックなのだ。建築の修辞学においても、事態は同じである。建築の修辞学とは、既存の語彙を、常識から逸脱させて用いること、と、まずは簡単に定義づけてみよう。
これから行おうとしていることは、現在存在している303の日本語におけるレトリック技法に、建築物を当てはめてみる、という試みだ。よって、この本では300近くの建築物を取り上げている。とはいえ、300近い建築物を設計した建築家が、各々の技法を使おうと意識して設計していたわけではないことは明白な事実だ。建築の修辞学は、すなわち事後的な認識である。そもそも修辞学とは、様々な作家が語彙不足からやむを得ず用いた過剰な言語表現を、事後的に分類した学問である。当然、建築の修辞学も同様の行程をたどる。事後的であるのだから、建築家が設計において意識していた思想や手法、発言などは、ここで一度括弧に入れる必要がある。私たちが目を向けるべきなのは「建築物それ自体」なのだ。建築の、物としての側面。目に見える範囲の世界。高邁な思想や、歴史的な評価、小難しい理論を抜きにした、純粋な建築物。柱が、道具であることを辞める瞬間。一瞬、柱が物になる瞬間。その瞬間を捕らえるための網が、建築の修辞学なのだろう。
この300に足らない建築物を、修辞技法というフィルタを通して見えてきそうなものは、建築物は時間というものを見えない主題として掲げる他ない、ということである。掲げざるを得ない、というべきか、いや、逃れることができないというべきだろう。
建築物を空間構成の観点から見通せば、現在という視点から逃れることはできない。また、詳細という観点から注視してもなお、事態は同様だ。現在は我々のもっとも重要な主題である。だが。部材は現在を含みながら、同時に現在から我々を逃がしてくれる。それは旅やフィクションが我々を現在におきながら現在から逃がしてくれるのと同じ方法である。
台無し
木も鉄もコンクリートも、かつてはそれ自体でなかったことを我々に語りかける。部材は素材の記号表現であるが、素材が素材であり続けるだけでは決して獲得し得ない意味が、部材にはある。コンクリートがかつて動物の死骸であり、また木の転写であることや、木が切り出されたということ、鉄が地球においてあらゆる物質の落ち着く場所であること。そして、部材は現在にいながら、木も鉄もコンクリートもやがては朽ちてしまうこと。歴史というには短すぎる過去や、未来という言葉では捉えることのできない、約束された予想。部材は現在を強制しながら、我々の力を借りて時間を脱臼していく。いや、部材の当然の意味を脱臼しなければならない。柱が柱であることをやめ、屋根が屋根であることを保証されなくなった時、意味と時間の途方もない脱臼が始まっていく。
脱臼された白紙の状態。台が失われ、意味と時間が無くなってしまったその時。そこに、我々が介入することの出来る素晴らしい物の世界が一気に立ち現れるのだ。
建築の修辞学に答えなどないし、もちろん正解などない。各人が、そこに何を見るか。もはやそこに、建築家などいない。建築家の溢れんばかりの表現欲求が、皮肉にも表現の享受という能動的なベクトルから我々を逃してくれる。
さぁ、台が失われた台無しの地平から、意味の世界を築こうではないか。構築は建築家にのみ許された行為ではない。物の構築の上に、各人各様の意味の構築が、見えないながら存在するのだ。目に見える物の世界に無理矢理、シニフィエを当て込むことこそ建築の修辞学である。そこは、なんと静かなのだろう。台も音も無い舞台の上の、物と意味の戯れこそが、建築の修辞学である。